牧師コラム

日本基督教団 下関丸山教会 牧師コラムをお届けいたします。

コラムNo20

2014年10月03日

誰もが幸せに暮らしたいと、願っていることでしょう。

ある国の王様は立派な王宮に住み、山海の珍味を食べ、多くの家来にかしずかれ、何不自由なく暮らしていました。しかし、少しも幸せではありません。それどころか心は憂鬱で暗かったのです。ある日、王様は家来に命じました。
「国中で一番幸福な人を探して、その人の上着を私の所へ持ってまいれ。その上着を私も来てみよう。そうすれば少しは気が晴れるだろう」
家来は国中を探し回りましたが、なかなか見つかりません。しかし多くの人々が、たぶんあの人だろうと言う男が、とうとう見つかりました。家来が会いに行ってみると、その男はお百姓さんでした。畑で汗まみれになって働いていましたが、やはり評判通り、ニコニコ笑顔に満ち溢れ、幸せそうです。
ところがお百姓さん、上半身、裸で働いているではありませんか。
家来はとうとう、上着を王様の所に持って帰る事が出来ませんでした。

物質的には豊かな王様が、喜びがナイ、明るさがナイ、幸せがナイと不平不満を口にし、灰色の心を持てあましていたのに対し、上着一枚持たなかった、お百姓さんは、明るい太陽がアル、綺麗な湧き水がアル、美味しいお弁当がアル。家には女房も子供もいる。そして神様がおられると感謝を口にし、ニコニコ朗らかに暮らしていたと言うお話です。

聖書に悲しむ人々は幸いだと書いています。悲しみの中にあっても、神と出会う事ができたならば、神の愛を知ることができ、神の慰めを受けることができるからです。
聖書は私達に、神を心から信じる事が何よりも幸いなことだと教えています。

“悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる”(マタイによる福音書5章4節)

 

コラムNo19

2013年12月20日

クリスマスをお祝いする行事が、今年も世界各地で行われています。

クリスマスはクライストとマスの2つの言葉が1つになって出来ました。クライストはキリストを、マスは礼拝を意味します。つまり、クリスマスはキリストを礼拝すると言う意味です。

歴史の教科書に2000年前に生まれたと書かれているイエス・キリストの誕生を、毎年、世界各地で、お祝いし礼拝するのは、なぜでしょうか? 私達が誕生日を毎年お祝いするのは家族か友達など、近い関係にある人だけです。イエス・キリストは私達と近い関係にあるのでしょうか。実は非常に近い関係 にあると聖書は教えています。

「子を持って知る親の恩」という諺があります。私達は親になって子供を授かった時に、初めて親の恩、親の愛情の深さ、有難さを理解するという意味です。同じ立場になって経験した時、本当の意味でその事を理解できるのです。

だから神は私達の人生の苦しみ嘆きを理解して下さる為に、神の独り子のキリストを人間と同じ肉体を持ったイエスとして、この世に送って下さいました。

そして、そればかりでなく、イエス・キリストは罪深い人間の罪を全てその身に背負い、十字架に架かり苦しみを受ける為に、この世に来て下さったのです。

私達のあるがままをそのまま引き受けて下さる神の愛が、このクリスマスの日にハッキリと示されたのです。

クリスマスの出来事は、罪ある私達を救う為に、神から贈られた愛の形である事を、私達に知らせています。

この救いの真の光が私達の上に、今日も注がれています。

“言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた”

(ヨハネによる福音書1章14節)



当教会では下記のクリスマス集会を行います。
お気軽にお越しください。心よりお待ちしています。


 ☆クリスマス礼拝 
  12月22日(日)午前10時15分 
   ハンドベル演奏など。
 ☆クリスマス・イブ礼拝 
  12月24日(火)午後6時30分 
   ヴァイオリン演奏やキャンドル・サービスを行います。

コラムNo18

2013年08月27日

ようやく朝夕、涼しさを感じられる季節となりました。

しかし、日中はまだまだ、きびしい暑さが続いています。

暑い今年の夏は、涼を求める多くの人々で海やプールが、にぎわったことでしょう。

ある中学校の体育の水泳の授業での話です。

一人の男子学生は、とても水泳が苦手で上手く泳ぐ事ができません。プールに入って夢中で手足をバシャバシャと、溺れそうになっていました。すると先生が見かねて言いました。

「そんなにバシャバシャ慌てるな。手足をバタバタさせずに、何にもしないで体から力を抜いてみろ。人間、水には浮くようにできているんだ」

体から力を抜けば人間は自然と体が浮くようにできている。そのアドバイスを信じた彼は、体が浮いて泳げるようになったのです。

聖書に「明日のことまで思い悩むな」と書かれています。私達は時として、明日の事、未来の事まで思い悩む事があります。明日はどうなるか、誰にも確かな事は分かりません。だから皆、明日に不安をいだいて思い悩みます。

そ んな時こそ一旦、思い悩む事をやめて、明日をご存知である神に信頼し、委ねてみなさいと聖書は語ります。体から力を抜けば人間は自然と体が浮くようにでき ている。思い悩む事をやめて神様を心から信頼して委ねてみれば、私達は安心できるように、助かるように、生き抜けるように、自然とできていると云うので す。

自分の力だけに頼ってバタバタと慌てている時は、本当の解決を見出せない。神様に信頼し、その日を精一杯頑張った時、必要な事が与えられて、解決の道が開かれるのではないでしょうか。

 一度、肩の力を抜いてリラックスして、みられてはいかがでしょうか。


“明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。”(マタイによる福音書6章34節)

コラムNo17

2013年05月23日

教 会には三つの重要な記念日があります。イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマス、次にイエス・キリストの復活を祝うイースター、そして教会の誕生を 記念したペンテコステです。ペンテコステとはギリシャ語で「50番目」を意味する言葉です。聖書では、主イエスが復活されて50日目に弟子達の上に聖霊が 降り注ぎ、熱い信仰が与えられました。それまで脅えて隠れていた弟子達が、聖霊の力を注がれて心の方向転換を経験しました。主イエスを救い主として受け入 れ、堂々と主イエスの福音を伝える者に変えられたのです。そして、この時、キリスト教会が誕生しました。それから教会は弟子達の熱心な宣教によって、エル サレムから世界中に広がっていきました。

下 関にも多くの宣教師が訪れ福音が伝えられ、教会が建てられました。教会を訪れるきっかけは人それぞれですが、教会で主イエスの愛に出会い、自分の罪を認 め、心の方向転換をした私達は、イエス・キリストを「かしら」として集まり、救いの喜びを分かち合うことが出来るのです。

下 関丸山教会は来年、創立110周年を迎えます。戦前、戦中、戦後とその歴史の中には多くの困難がありました。しかし教会の中心にはイエス・キリストがおら れ、いつも励ましと希望が与えられました。これからも教会は神様の導きに従って、互いに支え合い福音を語り伝えて、主イエスを証しする事を願っています。

 

 

“あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなくユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる”               (使徒言行録 1章8節)

コラムNo16

2013年05月05日

5月12日は母の日です。母の日は1908年にアメリカの教会でアンナ・ジャービスという女性が亡き母親を偲び、教会に集まった人々に、母親が好き であった白いカーネーションを手渡しました。そして、友人たちに「母の日」を国中で祝うことを提案し、その出来事からアメリカでは旧約聖書の十戒の「あな たの父母を敬え」という箇所に基づき、5月の第2日曜日を「母の日」として記念し祝うようになりました。


また、次のような母に捧げた詩があります。「一億の人に一億の母あれど、我が母にまさる母なし」このように多くの人にとって、母親は大切な 唯一絶対の存在であるという事が言えるでしょう。これは母親の子に注がれた愛が、見返りを求めない無条件の愛だからではないでしょうか。しかし、全ての母 親の愛が無条件の絶対の愛とは限らないようです。


聖書には無条件の絶対の愛が示されています。それは、私たちの良いところも悪いところも全てご存じな上で、それでも、私たちの全てを受け入 れて愛して下さる、神の愛があると書かれています。そして私たちを愛するがゆえに、イエス様は私たちの罪を代わりに負って、十字架にかかり罪を贖って下さ いました。ここに神様の私たちへの愛がはっきりと示されたのです。
迷子の赤ん坊は、どんなオモチャを与えられても泣き止みません。しかし母の胸に 抱かれた時、はじめて安心して泣き止むことが出来るのです。私たちも人生に失望し思い悩む時、神様は大きく両手を広げて、あなたを待っておられます。私た ちも神様のもとに帰る時に、心に平安を得る事が出来るのです。そして、もし母親が私たちを忘れるような事があっても、神様は私たちを忘れることは決してな いのです。


“女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の生んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない” (イザヤ書の49章15節)

コラムNo15

2013年04月03日

教会では春の訪れと共にイースターを迎えます。


イエス様の誕生をお祝いするクリスマスは多くの人に知られていますが、イエス様の復活を祝うイースターはあまり知られていません。


しかし、教会にとってイースターは、クリスマスよりも喜ばしい日と言えるでしょう。
聖 書には、イエス様が十字架に架けられ墓に葬られるまでの一部始終を見守った、3人の婦人たちのことが書かれています。婦人たちはイエス様が亡くなってから 三日目の朝に墓へ行ってみると、墓の中が空っぽでした。婦人たちが途方にくれていると、突然、輝く衣を着た二人の人がそばに現れ「あの方は、ここにはおら れない。復活なさったのだ。」と言いました。そこで婦人たちは、以前、イエス様が「十字架につけられ三日目に復活する」と言われたことを思い出しました。


そ れから婦人たちは復活されたイエス様と出会い、復活が真実であると確信した時、婦人たちの悲しみの心の中に希望の光が差し込みました。婦人たちは暗い墓の 中から方向転換をして、明るいイエス様の復活の希望を信じたのです。それからイエス様を見捨てて逃げた弟子たちにイエス様の復活を伝えました。そして弟子 たちは復活のイエス様に出会い信仰を確信し、それからイエス様が復活された日曜日に礼拝が捧げるようになりました。教会ができて2000年もの間、復活の イエス様を賛美し礼拝が続けられてきました。今日も教会で私たちは、イエス様と出会うことが出来るのです。

皆様が心の重荷を降ろし方向転換をして、イエス様と出会って、心に希望の光が届きますように。


“イエスは言われた「わたしは復活であり、命である」”(ヨハネによる福音書11章25節)

コラムNo14

2013年03月22日

東日本大震災の発生から丸2年が経ち、あの日を思い起こし3月11日は多くの人々が手を合わせて、祈りの日となりました。

 

震災復興の応援ソングである「花は咲く」の一節に「悲しみの向こう側に…花は咲く、私は何を残しただろう」と歌われています。私達はあの悲しみ苦し みから何かを学び、その学んだ教訓を如何に未来の生活に、また次の世代に残して行くのかが、重要な事ではないかと、「花は咲く」の歌は教えてくれているよ うに思います。

 

さて教会では受難節(レント)の期間を迎え、イエス様の十字架に至るまでの御(み)苦(くる)しみを覚えながら過ごしています。イエス様と弟子達は あのレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」の絵画で有名な最後の食事を終えて、ゲッセマネの園にやって来られました。ゲッセマネとはオリーブの「油をし ぼる」という意味ですが、まさに、この場所でイエス様は父なる神様にしぼり出すように心の悲しみを祈ります。しかし「私が願う事ではなく、御心に、かなう 事が行われますように」と最後には神様のご計画に従われます。そして私達を愛し私達の罪のゆえに、イエス様は十字架に架かって下さいました。イエス様は十 字架の苦しみを通して、その悲しみの向こう側に、私達の為に救いの道を残して下さいました。十字架の御苦しみによって、私達に罪の赦しと永遠の命への道を 備えて下さったのです。

 

今年の桜の開花は早いようです。被災された方々の心の中にも早く、花が咲かれることをお祈りいたします。そして私達もイエス様の御苦しみを覚えて、神様が私達を愛して、残された救いの道を信じ、心に信仰の花を咲かせて行ければと願います。

 

“神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである”

(ヨハネによる福音書3章16節)

コラムNo13

2013年02月26日

春の陽射しがようやく感じられ、梅の香りがただよう季節となりました。

 

教会では受難節(レント)の期間を迎えています。

受難節は復活祭 (イースター)までの日曜日を除く40日の期間です。

救い主のイエス・キリストがエルサレムに入城されてから、十字架に架けられて死なれるまでの受難の出来事を、思い起こして過ごす期間です。

イエス様がエルサレムに入城された時、人々はイエス様を王として歓迎しシュロの枝を道に敷いてお迎えしました。しかし、イエス様を喜んで迎えたはずの人々が、後にイエス様をねたむ律法学者達に扇動されて、「イエスを十字架につけろ」と非難する者に変わってしまいます。

 

そのような、愚かな弱い心を持った人々を、イエス様はなおも愛してくださり、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。

このイエス様の十字架の上の御苦しみは、私達に向けられた一方通行の愛でした。しかし、この十字架の上に、私達に対するイエス様の大いなる愛がはっきりと示されたのです。

 

私達も受難節に自分自身を見つめ直し、イエス様の十字架の御業に思いを向け、その意味を知って信じる時に、私達は神様に罪が赦されて、イエス様の愛の中で癒され、豊かな人生を過ごすことができるのです。

 

“そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。

わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。

そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。“

(ペトロの手紙Ⅰ 2章24節)

コラムNo12

2013年02月07日

暦の上では立春を迎え春の訪れが待ち遠しい、今日この頃です。

季節の変わり目には体の免疫力が低下し、感染症や病気にかかりやすくなります。

そのため2月には邪気(鬼)を追い払い、人々の健康や幸せを願う節分が行なわれます。

「鬼は外、福は内」と大声を出して、いり豆を投げつけ病気や災害を追い払います。

しかし、自分の内にいる鬼はどうでしょうか。

怒りや憎しみ、嫌悪感や不機嫌などの心の内の鬼は、どうすれば追い出せるのでしょうか。

 

イエス・キリストは神の言葉によって悪魔を追い払ったと、聖書に書かれています。

荒野で断食をしていたイエス様の前に悪魔は、「神の子なら石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑しました。

しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と悪魔を追い払いました。

イエス様は石をパンに変えて、ご自身の権威を示すこともできました。

しかし、イエス様が、この地上に来られたのは神の言葉、すなわち福音を伝えるためでした。イエス様は人々に仕えるために、私達の心の内の罪を身代わりに背負い、十字架に架かり死なれ三日目によみがえられました。

このイエス様の御業を自分の心の内に受け入れる者は、神様の前に罪が赦され救われるのです。

イエス・キリストの福音を心の内に迎え入れ、幸せな春が皆様に訪れますように願います。

 

“人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として

自分の命を献げるために来たのである。”  マルコによる福音書10章45節

コラムNo11

2013年01月18日

新たな年を迎え、正月にデパートや商店の入口には門松が飾られていました。
この門松は昔から飾られていたようで、昔の狂歌に次のような歌があります。
「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」
これを歌ったのは、一休宗純と云われています。あのトンチで有名な一休さんです。
門松をめでたいと祝って立てているけれど、門松は年々、冥土に近づく印とも言えるので、めでたくもない、という意味です。 
私達の人生の旅路には多くの門があります。
中学校、高校と学校の正門をくぐり抜け、そして勤め先の門をくぐり、結婚してマイホームの門をくぐる人もいるでしょう。

聖書には「私は門である。私を通って入る者は救われる」と書かれています。
つまり、私達の人生の旅路に、イエス・キリストの門が備えられていて、その門を通って入る者は救われるというのです。
たとえ困難な事があっても、その困難を乗り超える力が与えられる、そのような救いの門が私達の前に開かれているというのです。
このイエス・キリストの門は救いの門であり、命に通じる門、希望の門なのです。
この希望の門は狭く見出す者は少ないと書かれています。しかし私達はただ神様の恵みによって、その希望の門を見出し、狭い門から入る事が出来るのです。
新たな年、私達の人生の旅路には、神様の開かれた門が用意されています。
その命に通じる門から入り、希望の道を神様を見上げながら歩む一年であればと願います。

 

“狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから
入る者が多い。しかし命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを
見いだす者は少ない。”         (マタイによる福音書 7章13節)