牧師コラム

日本基督教団 下関丸山教会 牧師コラムをお届けいたします。

コラムNo10

2012年12月15日

今から2000年余り前にイエス・キリストはイスラエルのベツレヘムでお生まれになり

ました。当時、住民登録をする為に多くの人々が、それぞれ自分の故郷に向かっていました。

マリアとヨセフも住んでいたナザレの町から、ベツレヘムの町に行って宿を探していましたが見つかりません。やっと見つかった小屋でイエス様はお生まれになりました。
生まれたばかりのイエス様が寝かされていたのは飼い葉桶の中でした。飼い葉桶というのは、牛や馬の餌を入れる桶(おけ)です。牛や馬の臭いがついた汚れた飼い葉桶の中が、イエス様の揺りかごであり居場所でした。
私達の心の中は楽しく穏やかな時ばかりではなく、むしろ悲しみや不安、不平不満、孤独な時の方が多いかもしれません。忘れたくても忘れられない悲しみや不安、こだわる心は、洗っても洗っても汚れの消えない飼い葉桶のようではないでしょうか。

そのような私達の心の中にイエス様は、「ここが私の居場所です」と来て下さったのです。イエス様を心に受け入れた人は、神様の愛で心が満たされて、悲しみ や不安が洗い流されて、あなたと共にイエス様がいて下さるのです。そしてイエス様を救い主と信じる者には、永遠の命が約束され、希望を持って生きて行ける ことを聖書は私達に語っています。

救い主イエス様は神様から私達に贈られたクリスマスプレゼントなのです。イエス様は神様の愛を私達に伝えるために、贈られて来ました。
どうか神様からのクリスマスプレゼントを受け取られることをお勧めいたします。
私達の救い主として誕生されたイエス様を喜び、クリスマスをお祝いしましょう☆


“今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシア(キリスト)である。“      (ルカによる福音書2章11節)


当教会では下記のクリスマス集会を行います。
お気軽にお越しください。心よりお待ちしています。
☆クリスマス礼拝 
12月23日(日)午前10時15分 
☆クリスマス・イブ礼拝 
12月24日(月)午後6時30分 
教会で心静かにキャンドル・サービスを行います。

コラムNo9

2012年12月04日

今年も残すところ1ヶ月を切り、気忙しい師走を迎えましたが、街はクリスマスの華やかな飾りつけやイルミネーションが美しく、12月は心踊る月でもあります。

教会では12月にアドベントが始まり、イエス・キリストの誕生を準備する特別な期間に入りました。

世界中の教会が救い主イエスの誕生を祝う、クリスマスを待ち望んでいます。
このような救い主の到来は昔から待ち望まれていて、紀元前の昔には多くの預言が行われました。

その昔の預言の中にインマヌエル預言があります。今から2千年前、ユダヤ人ヨセフの夢の中で、その救い主誕生の預言が成就するという出来事が、聖書に書かれています。

ヨセフは驚くべき預言を夢の中で見ますが、それを信じ受け入れ、いいなづけのマリアを守り、また生まれてくる幼子のために準備をしたのです。

当時、ローマ帝国や律法の支配下にあったユダヤの人々は、多くの不安や悩みを抱えていました。しかしどんな危機的な状況にあってもヨセフは、インマヌエル預言の「神は我々と共におられる」という言葉に希望を持って、マリアを守り幼子の誕生を待ち望んだのです。

私達もイエス・キリストを信じ受け入れる時、たとえ今は不安や悩み、孤独の中にあったとしても、あの2千年前の聖夜、ヨセフとマリアが世界で最初のクリスマスを祝うことができたように、神は私達と共におられ、心に喜びと平安そして希望が与えられるのです。


“「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
その名は、「神は我々と共におられる」という意味である。”(マタイによる福音書1章23節)

コラムNo8

2012年11月02日

本格的な秋を迎え、紅葉の季節が訪れています。

この時期、キリスト教会では、かつて共に祈り賛美歌を歌った故人を偲び、記念礼拝を行います。

この記念礼拝では、在りし日の故人を思い、故人のために神様の祝福を祈ります。
聖書でイエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われました。

イ エス・キリストの復活を信じる者の人生は、死んで終わりではなく、死んでも生きると言うのです。つまりイエス・キリストを信じる者は、罪が赦されて神様か ら永遠の命が与えられて、神様が待っておられる天に帰ることが赦されるのです。イエス・キリストを信じる者はこの世にある時も亡くなった後も、神様の御手 の中で安らかに生きていけるのです。

記念礼拝では、今、神様のもとにおられる故人を思い、天地を創造された全知全能の神様に感謝の祈りを捧げます。

そして、故人の信仰にならってイエス・キリストを信じる者が、神様の栄光の為に生きようと決心を新たにする機会でもあるのです。


“わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として
来られるのを、わたしたちは待っています。”(フィリピの信徒への手紙3章20節)

コラムNo7

2012年10月10日

人は誰でも心身ともに健康で、毎日を生きて行けることを願います。

 

家族や仲間と幸せに過ごしたいという願いは、誰でもお持ちでしょう。
しかし、現実は人間関係の悩みや病を抱えながら生きている人が、多いのではないでしょうか。

 

昔、アメリカで孤独と病の中で、心を閉ざして寂しく日々を過ごしていた女の子がいました。

 

ある日、彼女は病院で聖書と出会い、聖書の話しを看護師さんから聞く内に、彼女の閉ざしていた心が、キリストの愛に触れて次第に開かれて行きました。

 

そして彼女は、自分は天涯孤独の憐れな身の上に育ったけれども、自分よりも、もっと辛く悲しい境遇に苦しんでいる人の為に、役に立ちたいという思いが与えられました。
それから彼女は盲学校に入学し、教師を目指して勉強に励みました。

 

そして卒業し、彼女が家庭教師として派遣されたのが、ヘレン・ケラーの家でした。
彼女は、目・耳・声の3重の障害を持ったヘレン・ケラーを神の愛を持って教え、神の愛を持って育てました。この家庭教師こそアン・サリバン先生です。

 

サリバン先生は幼い頃、イエス・キリストの愛に出会い、絶望の人生が希望の人生に変えられたのです。

 

神様がイエス・キリストを、この世に遣わされたのは、イエス・キリストの愛によって私達が生きるようになるためです。

 

神様に背を向けて絶望の中にある人生が、イエス・キリストを信じて希望のある、新たな人生に変えられることを、神様は聖書で約束しています。

 

 

“神は、ひとり子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。”

(Ⅰヨハネの手紙4章9節)

コラムNo6

2012年09月10日

パラリンピックが発祥の地ロンドンで行われました。

体にハンディを負った選手が懸命に競技へ向き合う姿に、多くの感動を与えられました。

パラリンピックの創始者であるグッドマン博士は、ロンドンにある病院で、第二次世界大戦で半身不随になった兵士達のリハビリテ―ションにスポーツが最適と考え、1948年に車椅子での競技大会を行ったことが始まりです。

彼は「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ」という言葉を残しています。
パラリンピックの選手たちは失った物をいつまでもくやみ、後ろ向きに生きるのではなく、自分のハンディを勇気を持って受け入れ、残された特別な才能を最大限に活かそうとする。その前向きな生き方が素晴らしいのです。


人は日常生活の中で他の人と比較して、うらやんだり、落ち込んだりします。
しかし、自分を卑下する必要はないのです。
なぜなら、その人に相応しい賜物を神様は必ず与えて下さっているからです。

神様は聖書を通して、慰めと励まし、勇気と希望を与えて下さいます。それ故、私達は神様のこの恵みを数えて、前向きに生きることができるのです。
どうか聖書の御言葉に耳を傾け、その中に希望と真実を発見して下さい。


“あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。” (エフェソの信徒への手紙2章8節)

コラムNo5

2012年08月22日

この夏休みも多くの人が故郷に帰られたことでしょう。

故郷には愛する家族、共に笑い合う仲間がいて、迎えてくれる人がいます。


童謡『ふるさと』を作曲した岡野貞一氏はクリスチャンで、毎週日曜日には教会で
オルガンを弾いていたそうです。

私たちクリスチャンはこの故郷を思う時に、さらに素晴らしい永遠の住み家、帰るべき天にある故郷を思い浮かべ、その故郷に希望を持って生きています。
神様は私たちを愛してくださるが故に、私たちの為に“都”を準備してくださると聖書は約束しています。

そして神様は、この地上に教会を建ててくださいました。

教会で賛美歌を歌い、祈り、聖書の御言葉を聞く時、私たちの心は癒され、天の故郷を身近に感じることができるのです。
それゆえ教会は、いつも私たちを迎えてくれる「心のふるさと」と言えるのです。

“彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。……
神は、彼らのために都を準備されていたからです。” (ヘブライ人への手紙11章16節)

コラムNo4

2012年08月01日

今年は平和の祭典といわれるオリンピックが、ロンドンで開催されています。

 

この日のために努力を積み重ねてきた選手が、世界の国々から一同に会し、互いに実力を発揮しメダルという栄冠を目指します。

 

応援する私たちも選手の懸命な姿に、国を越えて感動を受けます。

 

異なる国や民族の人々がお互いの実力を認め合い、その努力を讃え合う。このように互いを認め合うような世界平和を私たちは願います。

 

しかし現実には、国と国、民族と民族の間ばかりでなく、国の中に、職場の中に、学校の中に、家庭の中に、そして自分の心の中に、本当の平和があるのでしょうか。

 

内戦や天災、貧困やいじめ、自殺の問題など、私たちの周りには不安を引き起こす出来事がたくさんあります。この不安から私たちを解放し、私たちの心に本当の平安を与えてくれるものがあるのでしょうか。

 

聖書の中に、私たちは神様に創られたと書かれています。

 

神様に創られたのであるなら、私たちの心が神様に立ち帰る時にこそ、心の中に本当の平安が与えられるのではないでしょうか。例えば、真っ暗闇の迷い 道、不安な思いの中、帰るべき我が家の光を見出してホッと安堵する時のように、また赤ちゃんが、温かな母親の胸にいだかれた時に、本当の安心を得る事が出 来るように、私たちが神様に立ち帰る時に、本当の心の平安が与えられるのです。

 

自分自身の心に平安を手にした時、私たちは家庭や職場、地域の中で、お互いを認め合い、平和を実現する人として、神様は導いて下さるのです。

 

“平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。”

(マタイによる福音書5章9節)

コラムNo3

2012年07月12日

下関丸山教会では、毎週水曜日に聖書の学びと祈り会を行っています。
教会員の方々と一緒に聖書から学び、共に祈ることは貴重な一時です。
聖書からは“コリントの信徒への手紙”を学んでいます。
ギリシャのコリントという大きな町で宣教をしたパウロは、キリストの福音を重視していました。
ところが、その後、コリントの教会の人々は「どの先生の教えに従うか」ということで、仲間割れをしていたのです。
そこで、クリスチャンにとって大切なことは「どの先生に従うか」ではなく、「イエス・キリストの福音に従う」ことだと、パウロは“コリントの信徒への手紙“で書いています。
つまり、イエスさまが十字架に架けられたことによって、私達の罪が赦されて永遠の命を受ける救いの道が開かれました。
「イエスさまの十字架が私達を救った」ということが大切だと、パウロは教えています。
救い主イエスさまの十字架を仰ぎ歩む時に、私達の心に平安が訪れるのです。

“十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です“

(コリントの信徒への手紙一1章18節)

コラムNo2

2012年06月20日

梅雨の季節が訪れ、教会の庭にアジサイの花が咲きました。
アジサイの花は咲き始めの白から、ひと雨ごとに青や赤に変わっていくため
「移り気」という花言葉があります。
雨に濡れながら咲いているアジサイの花を眺めると、そんな花言葉が思い出されます。
世間の移り変わりや人の心の移ろいに寂しい思いをすることが、誰にでもあると思います。
しかし聖書は変わることのない神の言葉、神の愛を私達に伝えています。
教会の礼拝では、神の愛と希望を私達の心に与えてくれる聖書からメッセージを
お届けしております。(新共同訳聖書を使用しております)

“草は枯れ、花は散る。しかし主の言葉は永遠に変わることがない”

(ペトロの手紙Ⅰ1章24~25節)

コラムNo1

2012年06月11日

「十戒」という映画をご存じの方も多いことでしょう。

この映画は「旧約聖書」の中に登場する「モーセ」という人物を、チャールトン・ヘストンが演じて有名になった映画です。

「十戒」は神がイスラエル民族に与えた十の戒めのことです。

この中に「安息日をおぼえてこれを聖とせよ」という戒めがあります。

その意味は6日働いて7日目は仕事を休んで清く過ごしなさいということです。

私達には休息が必要です。そして身体を休めるだけでなく、心の休息も大切です。

下関丸山教会では、毎週日曜日に礼拝を守っています。

讃美と祈り・聖書の言葉に安らぎの時を過ごしてもらえれば幸いです。

ご遠慮なく教会にお越しください。

“疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう”(マタイによる福音書11章28節)