牧師コラム

コラムNo11

新たな年を迎え、正月にデパートや商店の入口には門松が飾られていました。
この門松は昔から飾られていたようで、昔の狂歌に次のような歌があります。
「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」
これを歌ったのは、一休宗純と云われています。あのトンチで有名な一休さんです。
門松をめでたいと祝って立てているけれど、門松は年々、冥土に近づく印とも言えるので、めでたくもない、という意味です。 
私達の人生の旅路には多くの門があります。
中学校、高校と学校の正門をくぐり抜け、そして勤め先の門をくぐり、結婚してマイホームの門をくぐる人もいるでしょう。

聖書には「私は門である。私を通って入る者は救われる」と書かれています。
つまり、私達の人生の旅路に、イエス・キリストの門が備えられていて、その門を通って入る者は救われるというのです。
たとえ困難な事があっても、その困難を乗り超える力が与えられる、そのような救いの門が私達の前に開かれているというのです。
このイエス・キリストの門は救いの門であり、命に通じる門、希望の門なのです。
この希望の門は狭く見出す者は少ないと書かれています。しかし私達はただ神様の恵みによって、その希望の門を見出し、狭い門から入る事が出来るのです。
新たな年、私達の人生の旅路には、神様の開かれた門が用意されています。
その命に通じる門から入り、希望の道を神様を見上げながら歩む一年であればと願います。

 

“狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから
入る者が多い。しかし命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを
見いだす者は少ない。”         (マタイによる福音書 7章13節)

2013/01/18